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2008年12月5日、老舗ロックバンドTHE MODS撮影中!くも膜下出血を発症、一緒に仕事をしていた最愛の女性の迅速な対応が功を奏し、重症ながら危篤から生還。身体の後遺症、心の後遺症の中、自分探ししています。


by mugnum-yoda
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Portrait〜教会にて

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Portrait〜教会にてベタな組み合わせ、恐らく世界中探せば、この手の写真って星の数。絵画迄含めると、同じ自閉症のアインシュタイン先生の相対性理論に照らし合わせて考えてみて考えると、その数は天文学であることは、否定出来ない事実だ。ベタな発想は、共感を得やすい利点もあり、広告手段に、ハリウッドの映画にすら、多々登場する。しかし、厳しい評価の目を浴びやすいのも事実である。教会の場は、その先入観が、誰にも或る事であろう。僕の生家の庭、依田さんの森と呼ばれていた森に隣接するように小さな教会があった。今、父と母が住む立て替えた尖り屋根の家の場所に、その昔、宣教師の布教所が、あったらしく、外人の宣教師の奥さんが、町の人にパン焼きや牛乳を使った料理やチーズ作りやらお裁縫を、教えていたそうだ。そんなルーツを持つ家族に生まれた僕は、食事の前に就寝前に「天にまします〜。」と唱える少年だった。コミュニュケーション障害で、普通の人が行く学校では、異端扱いされたが、日曜学校は、進んで物事が出来ない僕も、日曜日は積極的になった。なるほど安息日と呼ぶ訳なんだと、僕は幼いながら日曜日を溺愛していた。教会学校に続いて、お寺の幼稚園が会場になっていた書道教室。生徒が来る前の準備、終了後の後片付けもまかされていてた。テレビも「じゃじゃ馬億万長者」「奥様は魔女」海外ドラマに手に汗を握ったのも日曜日。雨が降ろうが風が吹こうが、僕には暖かった日曜日、おまけに、当時同居していた。父の一番下の妹、つまり、叔母ちゃん。僕は彼女が大好きだった。日曜日は、その叔母ちゃんのお勤めも休みで、一人っ子だけど、日曜日の午後だけは、つかのまの兄弟気分を味わえた。発症前の小樽での暮らし、最愛のSちゃんが僕に「遊ぼ。」とモデルとカメラマンごっこに応じてくれたのも日曜日だった。今は、毎日、次は何かな?と楽しむ事が出来たSちゃんがプレゼントしてくれた日めくりカレンダーを修了して曜日の感覚までが薄れてしまったけど、日曜日は、本当にSちゃんが狂おしい程に恋しくてたまらない。教会は暖かだった。広い意味で捉えて、人を暖める場所。まして、写真を写した日は、小樽に初雪が降った日曜日。寒気から二人で逃げ込んだ教会の風除室は風を遮り、ステンド越しの太陽に抱きしめられた、その場所は特別に暖かく感じた。其処に佇む彼女に玄関脇のマリア様が乗り移ったかのように、僕にはとてつもなく、神々しく思えた。彼女の存在そのものも、僕には暖かい教会であり、安息日であり、大好きな日曜日だった。
ストーブも拝まれており安息日 /依 田 昌 也
北国では、ストーブもまた信仰の対象である。ストーブのような彼女から買って貰った石油ファンヒーターのタイマー修了時間に流れるエルビスの名曲”LOVE ME TENDER"を急に思い出し涙が止まらない。本日、シーツ交換タオルケット毛布のクリーニングの日、看護士さんが「依田さん、彼女さん、毛布の換え持って来てくれたの?お願いしたんでしょ?」答えられない僕。病気のせいなのか、看護士さんに悪気が或る訳じゃ無いのは解っているけど、虐められているとしか思えない。子供の頃、小学校の先生も、僕を呼ぶ時「こら、そこの泣き虫!」同級生達も「おい、泣き虫。」と僕を呼ぶ。自閉症の僕は、しくしく、とかくよくよ、なんて泣く事が出来ないんだ。アニメの「田舎っぺ大将」の主人公、大ちゃんの如く、大声でビエ〜ンと涙をドバドバって溢れさせながら顔をぐしゃぐしゃにして泣く事しか出来ない。「大魔神出て来たな。」となき顔を先生が笑う。
冬野菜ふうふうして食み日曜日 / 依 田 昌 也
札幌の手術した病院から滝川の病院に移っての最初の外出、「まあちゃん、遠くて、前のように毎日お見舞い行けないよう。」と口を尖らせながらも、我が女神Sちゃんは、小樽〜滝川のディスタンスにも負けずに来てくれた。外出は買い物の遂行訓練を考えてスケジュールを組んで、Sちゃんは僕専属の作業療法士を担ってくれた。滝川と言えば「松尾ジンギスカン」Sちゃんの食事は、普段から、スポーツジムのトレーナーだったせいか、その食事が身体にどう影響するかを考えてのセレクト。この日も長い病院暮らしで足り無い栄養素と力を補給する意味で久しぶりの鉄鍋を囲んだ。まず、Sちゃんは店の方に僕がリハビリ中だと言う事を告げて僕の苦手側をフォローする形で着座してくれたSちゃん。肩から伝う体温は麻痺にも関わらず、暖かだったのを記憶している。ドキドキした。嬉しかった。前掛けしてくれるために、偶然ハグの形になった瞬間を今でも、昨日のように思い出す。鍋の肉の様子をみるSちゃんの箸さばきが美しかった。どんな動きをするときでもダンスだった。DAISHI DANCEと言う有名DJを僕はSちゃんと二人でかぶりつきで写した事があった。その時もSちゃんは足でビートを刻みながら、Nikonを手に抑揚たっぷりに全ての間接をグラインドさせていた。僕は目の前のアーティストよりSちゃんに見とれていた。DAISHI DANCE氏がプレイしながらコンデジで僕とSちゃんを写していた。嬉しかった。久しぶりのラム肉の味は美味しかった。Sちゃんの口の動きにあわせて「あ〜ん。」ムシャムシャも、Sちゃんの動きを鏡のように真似た。札幌病院では毎食繰り返した摂食嚥下訓練。このSちゃんの献身的な介助のお陰で、点滴と並んで、ぶら下がっていた、フードバッグが取れ、医師もびっくりする程の術後の回復となったんだよ。と看護士さんが検査で訪ねた時に教えてくれた。二人は織りスタイルのSちゃんが施してくれた訓練は作業療法士さんから見ても理に叶っていたんだって、想いの力が奇跡的な回復を呼ぶとメスを入れてくれた。先生が教えてくれた。Sちゃんの僕への想い、僕のSちゃんの想いが生んだ軌跡として、第三者が一見して、何処が悪いのかすら見当たらない程に回復したんだって。「でも、何で一緒に暮らしていないの?」だって、ちょっと不思議だった。聞くとSちゃんは先生に「依田さんの事は私が責任を持って、また以前のように写真が写せるようにして訓練して、一緒に仕事します。そうしてもらわないと困るんです。本当に大切なんです。」と言ってくれたんだって。先生のカルテの余白一杯にSちゃんから聞き取った言葉が記録されていた。ラム肉、本来は柔らかいんだけど、何度噛んでも食いちぎれなかった。もっともっとと、Sちゃんが顔を寄せて来てあむあむを僕に更に促す。噛めば噛む程に嬉しかった。それに加えて顔と顔の接近遭遇に嬉しくて気絶しそうだった。子供の頃から特別の日の、お約束のようなラム肉の味、羊、教会の劇では、毎回、酪農の家に生まれた僕は羊飼いの役が専門だった。今、僕は、相も変わらずに迷える羊だ。ある教えでは、この地球に存在する全ての命あるものは羊だそうだ。僕は同じ羊でもジンギスカンのラム肉のように、誰かに喜んでもらえる羊になりたいと、Sちゃんと鍋を囲みながら強く思った一年前の日曜日。Sちゃん、一杯、ありがとう。また、御飯しようね。何度も通った、あの店で、皆さんが写した。あるいは、皆さんが知っている。ベタな教会との組み合わせ作品を僕にトラックバックして、教えて下さい。この写真を写す時、いつものように似たシュチュエーションのアートがフラッシュした。それに、はめ込むように画像構築するのがサヴァンなる僕のスタイル。この時決め手になったのがHelene Knoopなる若き女性アーティスト。まるでルネッサンス時代から現代へ時旅行してきたような彼女の作風を他人とは思えない程、僕は共感した。「今、僕が写しているSちゃんの写真をヘレン・クノープさんに、フイニッシュしてもらいたいなあ。」と思った。僕は共同作業の中でクリエイションのスキルを挙げて来た人間だから、独りで挑んでいても、誰かとの作業を王呈してしまう。完結してしまうのは嫌だ。完結してしまうのが怖い。同じ自閉症の映画監督の作品、エピソード1、エピソード2、エピソード3と、じれったい程、完結しない。基本的に大好きな人の側から離れられないんだ。僕が肖像写真の為にカメラを覗く時、大好きな二人の巨匠なら、どうするかと自問自答する。その二人とは、肖像絵画世界にKIVE感を取り入れたJohannes Vermeer、そして僕の写真初心時代からの憧れ篠山紀信先生だ。特に三嶋由紀夫氏と山口百恵さんを写した一連の名作が、いつも脳裏に浮かぶ。篠山先生と運良く仕事で接近出来たTVガイドの表紙のデザイン・ディレクション。僕は、相変わらず何故何?少年で、それらの名作の撮影エピソードを失礼にも質問攻めしてしまった。嬉しかった。その場には、いつも東京ニュース通信社の重役も同席したが、巨匠は快く相手をして下さった。
by mugnum-yoda | 2010-01-26 08:52 | SWEET LOVE